誕生秘話

SECRET STORY

道内十七番目の
老舗コース

札樽ゴルフ倶楽部は、昭和39年(東京オリンピック開催年)に着工になったものであるが、どうして当時斜陽の都市小樽にゴルフ場を計画するようになったのか、その経緯については複雑を極めるので省く事とするが、忘れる事のできないのは、当時、茨城ゴルフ在籍の関水プロの存在である。関水プロと福神漬の酒税、酒税と札樽農協、札樽農協と広野善明氏などの関係のある中で、関水プロが輪厚コースでの日本プロに出場し、広野氏の世話になった事などが絡み合って、小樽の朝里川の用地が我々に紹介されたものだった。

東京オリンピック

東京オリンピック
(昭和29年10月10日)

工事は
雪との戦い

 用地入手にあたって問題となったのは、どうして山の上迄道路をつけるかということであったが、これも当時小樽市助役 田巻氏の発想になるヘアピンカーブで上がることで解決した。
 工事着工当時は、いざなぎ景気がまさに始まろうとしている頃で、道内でもぼつぼつゴルフ場の新設が試みられるようになっており、札樽ゴルフ倶楽部は道内第17番目のコースであった。現在、道内には120コースを超えることなどと思い合わせると、当時ゴルフの普及は未だしの感も深く、従って創世記の会員募集には随分と苦労があった。
 現地踏査は2月降雪後、案内人は山スキーのいでたち、吾々は馴れぬ「カンジキ」姿でついて行くのがやっとの思い。ところどころで足を埋没してしまう。
 雪と吹き溜まりに結構よいスロープが続いていたので、着工と決まって、雪解け近く乗り込んで見て驚いた。進入路に計画したところは3m程の積雪である。
 現場員の合宿所は昭和31年までは営業していた女郎屋さんである。いくつにも仕切られた部屋があって分宿には誠に都合が良い。
 測量をはじめるに当って、何しろ長い間斧鋮を加えたことのない原生林である。基準点の三角点をさがすのに一週間もかかった。コースの選定も大変であった。熊にも遭遇した。

クラブウェイ クラブウェイ

 クラブウェイが完成したのはオープン間近であり、それまでは小樽まで出て迂回して赤井岳の麓から進入路をつくった。白樺林とブナ、イタヤ楓、熊笹の繁茂する中を悪戦苦闘しながらやっとの思いで貫通させた。工事終了、機械撤収までこの道が頼りであった。
 何しろ、工期を急ぐことと冬将軍至れば雪解けの初夏までは工事不能となるため、物量投入の突貫工事となった。重機は先に樽前で応援を受けた苫小牧臨海工業より40台、紺谷班より5台、24時間フル稼働で、炊き出しも大童。まさに戦場そのものであった。重機の指導は安倍恒男氏が当り、鬼神の如く君臨した。

コース改良
への情熱

 北海道第17番目のコースとして誕生したこのゴルフ場は、しばらくしてスケート界の名士有坂隆祐を取締役支配人として迎える事になる。昭和40年9月のことであった。
 有坂が着任してよりコースの状態は見違えるように良くなった。スズメノカタビラが激減したのだ。これは北海道農事試験場を札樽ゴルフ倶楽部に結び付けよう発案したことによる。同試験場の眞木芳助博士と頻繁に連絡を持つことでコース改善に努力した功績は高く評価せねばならない。
 昭和61年北海道アマの開催をこのコースへ招くことが出来たのも、こんな事情があったのだ。

札幌ゴルフ倶楽部データ
世相 東京オリンピック、新潟大地震、ベトナム北爆
工事名 札樽ゴルフ倶楽部18ホールズ新設工事
発注者 日観興業(株)
 ※発注当時は札樽スポーツセンターで後に日観興業に合併
工事場所 北海道小樽市朝里川温泉1-504
工事期間 昭和39年4月〜昭和40年10月
設計者 上田 治
請負金 150,000,000円
工事概要 (1)18ホールズ6,485ヤード
(2)グリーン12,600㎡
(3)ティーグラウンド8,100㎡
(4)フェアウェー221,000㎡
(5)ラフ234,000㎡
(6)切土量別工事
作業所長 寺井章一
工事担当 鈴木正夫、粟飯原金太郎、勢〆作造、阿部班、紺谷班、古木班、
苫小牧臨海開発グループ